本当に怖いのは霊とかそういうものじゃない。 - 高島こゆき 2025/09/20 12:42 Blog

夏の暑さの残る九月の初旬。
錆びた鉄階段の木造アパートの前に一台のタクシーが停まった。

少し間をあけて、黄色いカットソーに白いスラックス、白いツバ広の帽子を被った女性が降りてきた。
終戦と共に生まれた彼女だが足取りは軽く、急な階段を手すりも掴まずに登る。
コロナ禍前には毎週地区センターでサークルをご一緒していた年上の友人である。

「ちょっとだけご無沙汰してました。お元気だったかしら。」

彼女も私も外食があまり好きではないのだが、クーラーのない家に招くのも気が引けるので夏は特に外の喫茶店なんかで会うことが多い。
家に来るのは３ヶ月ぶりであった。

「はい、これお土産。とっても美味しいの。あなた、酢の物好きでしょう？」



わぁ、いつもありがとうございます、と少し大袈裟にお礼を言いながら受け取る。
手渡されたお酢を確認して、背筋にひんやり冷たいものが走る。

口を開いても喉の奥がグズグズと痒くなるだけで、上滑りした言葉は全て喉につかえて声にならずに消えていった。

「店員さんが芸人さんみたいで面白いの。週に１回行くんだけど、お友達もいっぱいくるから、それが楽しみで。」

窓を開け放した部屋の中で、暖かいコーヒーを淹れる。
いつも通り、私は濃いめのブレンドで、彼女は酸味のあるデカフェだった。
ドリップバッグを外してソーサーごとコーヒーカップを渡すと、彼女は音も立てず上品にコーヒーカップを受け取った。

「あら、いつもありがとう。」

その後は盲導犬バザーに出すエコバッグやら傘の取手カバーの話をした。
３時間ほどして陽が傾いた頃、タクシーを呼んでほしいと頼まれた。

「あらぁ、もうこんな時間。お父さんのご飯支度しなくちゃ。」

今日の献立を聞くと、もうカレーでいいかと面倒くさそうにしていた。
彼女はどこまでもいつも通りだったが、私の指先は冷え切っていた。